臨死体験から20年後 パート1

30代と40代に楽しみは、ドライブ、旅行、冒険、ヨガ、スクーター、イベント、コンサート、AAボランティア活動、マクロビオティッククラスを教える事、いろんない人に会う、動物家族、ビーチ、ハイキング、園芸、写真、執筆、少し瞑想と気まぐれアート。

ドライブが大好きで眠れない時は午前3時にサンディエゴまでドライブして光あふれる朝日を見て美味しい朝食を食べてサンタモニカに帰って来た。

34歳のバースデーからスカイダイビングを始めた。

スキューバダイビングでカリブ海(ケイマン島、ジャマイカ、プエルトリコなど)行ってた。40歳のバースデーはタヒチにシャークダイビング。アラスカ、パナマ、コスタリカ、メキシコ、カナダ、バリ、もちろん日本もいろいろ旅行しました。大体一人で旅行するのが好きだった。

最後に大きな旅行をしたのはヨーロッパを6週間。7カ国をお料理してお料理クラスのアシスタントをしてマッサージをしてマクロビオティックコミニュティーも行った。その他は車でアメリカ横断を2回。

将来の計画はモルディブにスキューバーに行って、オードリーヘップバーンの映画みたいにローマの休日を楽しみ、南アメリカブラジル、ペルー、そして瞑想とヨガの勉強でインドに行く事、他盛り沢山。

 

でも、神様は違った計画をされていたんだ。

9月8日2001年(平成13年)にアリゾナ州小さな村ホープで臨死体験をするほど酷い交通事故後、歩けなくなった。その日はアメリカ横断を1ヶ月して愛犬のキンちゃん、ロロちゃん、グムちゃん、愛猫のマイちゃんとサンタモニカに帰る日だった。 今でも思い出すと感情が溢れて涙で詳しい内容は書けない。

この写真のように癒しの力でまた歩けるようになり、丁度今日はその日から20年。

苦難からの復活の証として少しづつでもこれから書いてみたい。

 

ヘリコプターでアリゾナ州のフィニックス市の緊急病院に運ばれて3日間昏睡状態。

2001年9月11日にニューヨークなどで起こった同時多発テロの事も知りませんでした。

体外離脱体験して1989年(平成元年)に亡くなった父に会って、1998年(平成9年)に天命したアメリカで初めての愛犬サクラちゃんにも会いました。父は一緒にお茶を飲もうと言ってくれましたが私が急いでいるのでまたねと伝えました。サクラちゃんは私に会えてとっても喜んでましたが大好きなサクラちゃんと会えて私も嬉しいけど行かなくちゃいけないのと言って私は天国の入り口からこの下界に戻ろうとしてた。

心肺機能停止が何回もあったとかで一度は12分も停止したと聞いた。

エリックが病院に着いた時、私が治療されていたICU集中治療室の前に二人の牧師がいて彼に祈る事を勧めた。通常の電気ショック心臓機能蘇生だけでは無理だったそうで緊急病院のドクターの一人、ドクターハミルトンは私の心臓に直接注射張りを刺して刺激させて奇跡的に私は蘇生されたとだいぶ後に聞いた。

アメリカ映画の『パルプ・フィクション』の中で女優のユマ・サーマンが蘇生される時にこの方法が使われている。

蘇生されて生き返って来た事は霊的なものだったと言いたいのですが、私の場合は違ってた。エネルギーが急に肉体に入って来て私が戻ったという極度なショックを感じた。

アメリカのコンピュータアニメ映画の『アイス・エイジ』のスクラット(リスとネズミの合いの子のような架空の動物)が何回も死ぬようなシーンがあって生き返ってくる勢いに似ていてこの映画を見て泣いた。

現実に蘇生された私の心臓と肺が事故でつぶされてしまっていたので肺から喉に管が入っていて話す事も出来い情態だった。でも手が動かせるようになった私は、窓からの光がとにかく必要だと感じて、字を書いてエリックに自分の寝ていたICU集中治療室内のベッドを窓の近くに動かすように命令した。それから病院の近くの自然食品店でバッチフラワーレメディーとクリーム、そしてラベンダーのエッセンシャルオイルを買って来るように書いた。買って来てもらったものをつけて、痛くない所を優しくマッサージし始めた。

足の手術をしたドクターから私は歩けないと言われて、神経障害のためマッサージをしないようにとも言われた。ドクターから言われた事でショックを受けるのが当然だったがドクターの言っている事は正しくないと思った。ただ私は礼儀正しい日本人なのでドクターの言う事を尊重してあまり質問しなかった。もちろん歩けるようになるまでの苦難があるか考えていなかったし、どのくらい期間がかかると言う事は知らなかった。もう歩けるようになったら何をしたいか頭を巡らしていたようだ。

毎日、マッサージを続けていた。ドクターハミルトンは毎日病室の来てくれて私は日に日に良くなっている事とマッサージなどを毎日続けなさいと励ましてくれた。

この時はまだドクターハミルトンは私をどのように蘇生してくれたかは話してくれていなかった。今、考えればあの頃、もし知らされていたらきっと私は動揺して自分の気持ちをしっかり持っていられなかったかも。

それまでに生きていてもう既にいろいろもうあったけど、この新しい苦難は乗り越える必要があるためにやってきた1つだった。

愛犬のロロちゃんとグムちゃんが事故の時に死んでしまったと聞いた時は目の前が真っ暗になって大声で叫んで泣いた。看護婦さんが何かあったのかとビックリして病室に入って来た。

何で私も一緒に死ななかったの? 私がロロちゃんとグムちゃんを殺しちゃった~~!

ごめんね、ごめんね、ごめんね!!! 何回も同じ事を叫んでいた。

ロロちゃんとグムちゃんの母親のキンちゃんと愛猫マイちゃんは無事に助かってシェルターに預かってもらってて、おうちに帰るのを待っていると聞いてから少し落ち着いた。自分の気持ちを少しでも前向きにしてキンちゃんとマイちゃんのために生きようと決心。

 

ヘリコープターで運ばれた時にお財布とつけていた父が買ってくれたイヤリング、ネックレース、ブレスレットも盗まれてしまったと知らされた。クレジットカードは誰かがもう使っているとわかった。

緊急病院は毎日、毎夜混乱していた。手術した両足のガーゼ換えに来て緊急が起こってガーゼを外したまま3時間も夜中ほったらかしになっていたり、入院して2週間ごやっと頭をシャンプーしてくれる事になったけど、来てくれたのは夜中の3時。

健康保険がないので3週間で追い出される事になったがサンタモニカに戻るのは車では長くかかり過ぎて私の命に危険があるからヘリコプターで運んでもらう必要があると言われた。

エッ、ヘリコプター?そんなどのくらい費用がかかるのか?

エリックはバンをレントしてベッドを作ってゆっくり気をつけて運転。

家に着いてからドアーをタンカーの代わりに使ってみんなで私を家の中に運んでくれた。

あの頃はまだFaceBook、Instagram、Youtubeもなかったけど今ならミリオンヒットしてるね。(笑)

サンタモニカの自分の家に戻って来て庭を通って家の中運ばれていた時、自分が植えて育てて来た木々、植物、花たちの香りが「帰って来てくれてありがとう。おかえりなさい!」って言ってくれてた。同じ交通事故で生き残ってアリゾナから帰って来ていたキンちゃんとマイちゃんに会えた時は感無量で言葉が出なかったけどハグしあった。

この時はまだ知らなかったけど、キンちゃんとマイちゃんと私のPTSDが始まろうとしていた。

つづき。。。